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テラ未来予想図2

[最終回]僧伽は古くない。いまこそ現代版僧伽(サンガ)の構築を

小池陽人(こいけ・ようにん)
大本山須磨寺 寺務長
昭和61年生まれ。総本山醍醐寺修行道場「伝法学院」卒業後、四国八十八か所歩き遍路成満。清荒神清澄寺で天堂番として二年間修行。
須磨寺では、生涯学習の場としての「青葉会」や「須磨 夜音 音楽法要祭」などを開催。NHK文化講座神戸教室の講師としても活動中。H-1グランプリ法話決戦in兵庫 初代グランプリ。令和元年に行われた全国初の超宗派法話大会「H1法話グランプリ~エピソードゼロ」実行委員長。ラジオ関西「田辺眞人のまっことラジオ」で、「ラジオ法話 心の深呼吸」のコーナーを担当。平成29年6月よりYouTubeチャンネル「須磨寺小池陽人の随想録」開設、2週間に一度YouTubeで法話配信。同年9月より、須磨寺テレホン法話で3分間の法話を毎月更新。テレホン法話:TEL078-732-5800

ここまでのやり取りは、こちらから御覧ください。

細川晋輔様

拝復
この度の、往復書簡、これが最後となります。細川さんからいただきましたお手紙を拝読し、毎回その素晴らしいお言葉に触れ、感動し、学びをいただいてきました。松原泰道先生から受け継がれた、細川さんの布教に対する真摯な思いに触れる度、いかに自分が未熟であるかという忸怩たる思いを抱くと共に、もっと学び精進せねばならないという思いを新たにしております。本当にありがとうございます。

お釈迦様は「よき友をもつことは、悟りの道のすべてである」というお言葉を残されています。幸せになるための四利の教えの一つ「善友」にあたります。お釈迦様の時代から、仏教では「サンガ(僧伽)」という、共に仏道に励む仲間の存在が重んじられてきました。一人で山に籠り、瞑想するという様な修行のイメージは、後に作られたもので、本来の修行は人と人との関わりの中で互いに深め合っていくものだったのです。だからこそ、仏教においての三つの宝、三宝の教えは、「仏(ブッダ)」「法(仏の教え)」「僧(サンガ)」で構成されているのだと思います。特に、大乗仏教は、一人だけで悟ることはあり得ないという教えです。皆で悟ることが、本当の悟りと説いています。これは、一人で生きている人はいない、繋がりの中で生きているということを教えてくださっているのだと思います。

私は、十二年前僧侶になるため醍醐寺の修行道場「伝法学院」で一年間の修行をしました。私を含め、十二名の仲間とのこもりきりの修行でした。同じ人と、一年間、寝食を共にするということは、初めての経験です。修行を通して仲良くなりましたが、もめごとが起こることもしばしばありました。特に、一番厳しい修行である四度加行の時には、余裕がなくなり、自分のことで頭がいっぱいになり、相手に対しての思いやりがもてなくなって、普段なら許せることが許せず、ぶつかり合うこともありました。自分の行に集中すれば良いのに、周りの存在が気になってしまうのです。そのような時に、一人で修行した方が、よほど良い修行ができるのはないか、などと思ってしまったこともありました。しかし、振り返ってみて、間違いなく自分一人ではとても乗り切ることができなかったと思います。そして、仲間がいたからこそ、素晴らしい修行になったと確信しています。私が修行道場に入った年は、醍醐寺の開山、聖宝理源大師の千百年の御遠忌の年でした。様々な特別行事、法要があり、修行道場のカリキュラムも、例年とは全く違うものでした。前例がない中で、寮監先生の指示のもと、修行僧たちで話し合い、智慧を出し合い、工夫を重ねながら、一年間の修行と向き合いました。早起きして、水行をして、読経、作務(掃除)、修法、座学をする。それだけをするのが修行であれば、一人でもできるでしょう。でも、それを皆でやることに意味があるのだということに、後になってからですが、気づかされました。皆でやると、もめたり、効率が悪くなったり、自分の思い通りにならないこともたくさんあります。しかし、自分では気づくことのできない視点を得たり、仲間との関わりの中で、自分の至らなさに気づかされたりしました。それこそが、修行道場での一番の学びであったと言えるかもしれません。

現代の日本では、地域社会の中で人間関係が希薄になり、孤立が生まれ、それが、ひきこもり、老人の孤独死や子育てにおける虐待やネグレクトなど、様々な社会問題に繋がっているように感じます。このような時代にあって、地域での繋がりの創造こそが、お寺やお坊さんの担うべき大切な一つの役割ではないかと思っています。まさに、現代における「僧伽(サンガ)」の創造です。これからの社会で繋がりを作っていく時に、大切になってくるキーワードがあると思っています。それは、誰もが持っている「弱さ」です。

北海道の浦川に精神障害者の活動拠点「べてるの家」という場所があります。その理念の中に「弱さを絆に」という言葉があります。精神障害の方たちの共同生活は、毎日トラブルの連続です。問題だらけの毎日ではありますが、べてるの家では、日高昆布の直送販売や、介護用品の販売事業など、様々な事業を継続させています。精神障害を一言で定義するならば、「人付き合いに困難を生じる病」であると代表の向谷地さんはおっしゃいます。幻聴、幻覚などに悩まされたり、根気が続かなかったり、理解力や記憶力が低下したりして、周りに迷惑をかけてしまい、それがトラブルのもとになる。彼らは決してわざとそうしているのではなく、彼ら自身が誰よりも自分に落胆し、不甲斐なさを感じて暮らしているのです。それらの「弱さ」は、病気の症状の一つとして治療や訓練の結果、克服すべきものと捉えられてきました。べてるの家では、彼らに弱さを克服することを求めませんでした。まずは彼らの弱さをありのままに認めるところから始めたのです。そして、彼ら自身が、自分の「弱さ」を周りに伝えていきました。これが「弱さの情報公開」です。例えば、根気が続かず作業がたったの三分しか続かない方は、それを克服しようとはせず、自分が三分しかもたないことを、周りに伝えていきました。そして助っ人を募るのです。すると、その人を助けようと人が集まってきてくれたのだそうです。一人の「弱さ」があって、それを周りが肯定することによって、人を繋ぐ「絆」が生まれていったのです。「弱さの情報公開」をすることによって、助け合いが生まれていく。向谷地さんは、おっしゃいます。「弱さとは、強さが弱体化したものではない。弱さとは、強さに向かうための一つのプロセスでもない。弱さには弱さとしての意味があり、価値がある。」

誰しもが持っている自分自身の弱さ。ついその弱さを隠したくなったり、ごまかしたくなったりしてしまいます。しかし、「弱さ」そのものが、その人が持つ可能性であり魅力であると、「べてるの家」の人々のお話から学ばせていただきました。

しかし、生産性(効率)を求められる今の社会では、弱い自分を出せないことが多いように感じます。学校や会社などで、それは顕著にあらわれるかもしれません。自分の弱さを他に見せられないことが息苦しさや生き辛さとなっているような気がしてなりません。

そこで、世間の価値観から離れた、出世間の価値観に触れることができるお寺であればこそ、ありのままの自己でいられる場をつくれるのではないかと考えています。それぞれの人が、弱さを隠さず、ありのままの自己でいられる場所。理由なく居られる場所。そのような場でありたいと願っています。

その為にも、未来の住職塾の松本紹圭さんのお言葉をお借りしますが、これからは、「伝える布教からつながる布教」が大切になってくるのだと思います。僧侶が一方的に伝える側になるのではなく、檀信徒さん、地域の方との双方向のやりとりの中で、教えをかみしめていく。あるいは居場所を作っていく。そうすれば自ずと、現代の「僧伽サンガ」ができてくるのではないでしょうか。
長々と拙い文と浅はかな思いを書いてしまい、申し訳ありません。宗派は違いますが、尊敬する先輩僧侶、細川さんとの出会いは、まさに私の人生にとって宝であります。このご法縁に感謝し、精進して参ります。どうか今後とも、ご教導の程、伏してお願い申し上げます。

この度は、貴重な機会をいただきましたこと、心より御礼申し上げます。
合掌九拝
小池陽人