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テラ未来予想図2

[最終回]お寺つくりは、人つくり、僧侶つくり

細川晋輔(ほそかわ・しんすけ)
1979年生まれ。松原泰道の孫。佛教大学卒業後、京都・妙心寺専門道場にて9年間禅修行。東京都世田谷区・龍雲寺住職。花園大学大学院文学研究科仏教学専攻修士課程修了。
臨済宗妙心寺派東京禅センター副センター長。妙心寺派布教師。NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』禅宗指導、『麒麟がくる』仏事指導。

ここまでのやり取りは、こちらから御覧ください。

小池陽人さま

陽人さんのYouTubeライブも臨場感があり、いつも楽しく拝聴しております。この度ご縁があってはじめさせていただいた往復書簡も終了ということで、私からは最後のお手紙になります。

陽人さんと知り合ってまだ一年もたっていませんが、密度の濃い交流をさせていただき、たくさんの学びありました。コロナ禍ということで、まだ直接お目にかかったのが一度きりとは思えないほどです。

真言密教のことであったり、弘法大師のことであったり、また、社会的活動であったり、オンライン配信であったり、まだまだ知らない世界がたくさんあったことに、気づかせていただくことができました。

最後のお手紙は前回の陽人さんの問いかけの「お寺つくり」について、書かせていただきます。私がお預かりしている龍雲寺は1699年に建立された比較的新しいお寺です。須磨寺さまとは比べものになりませんね。十二代目の私が「お寺つくり」で大事にしていることは「一茎草を拈起して、丈六の金身と作す」という言葉です。
これは『従容録』いう禅の書物の中にある「 世尊指地」に記されています。「丈六の金身」とは、一般的にお釈迦様のことですが、ここでは「寺院」を意味しています。

ある日、お釈迦様が弟子たちとともにお出かけになられた時のこと。ある土地を指しておっしゃいます。「ここにお寺を建てなさい」と。すると、弟子の一人が、一本の草を摘んで、そこに刺し「寺を建てました」というのです。そしてそれをご覧になったお釈迦様は、にっこり微笑まれるのでした。

禅問答のようですね。色々な解釈ができると思います。私は「丈六金身はお寺」「一茎草はお寺にいる和尚さん」で捉えております。
お寺をつくっていくうえで大切なものは、やはり「人」だと思うのです。その「人」とは、住職はもちろん、副住職、寺庭(お寺の奥様)のことに他なりません。お寺にいる人々、特に和尚さんのいる場所が、そのまま「お寺」になると思うのです。

つまり「お寺つくり」とは、「和尚さんつくり」になるのです。亡くなられた浜松奥山方広寺の元管長・大井際断老師は「お坊さんは顔、声、姿」と常々おっしゃられていました。何もイケメンで声が良くて、ルックスがよくなければならないというわけではありません。もちろん、その方が少しはいいかもしれませんが。
お坊さん自身が、「僧侶になって良かった」と心から思い、仏道に真摯に向き合っていること。また布教教化に真剣に取りくまれていること。それが「顔、声、姿」ににじみ出てくるようでなければならないという意味と肝に銘じています。私はまだまだ遠く及ばず、まさに修行中ですが、少しでも老師のお言葉に近づいていけるように精進していく所存です。

そして仏教を伝えていくこと。自分自身の仏道に率直に向き合いながら行う「布教活動」こそ、われわれにとって一番大切なことだと思うのです。これは祖父・松原泰道師のこの言葉を置かせていただきます。

「布教の大切さを常に心にとめ、布教を修行と心得てまいりましたが、昨今の痛ましい社会的事件などを省みて、布教の足りなさ、私たちの力不足を痛感いたします。
とくに若い世代に対する布教の必要性を感じます。布教とは、なにも仏教徒への改宗や入信を目的とするために行われるものではありません。少しでも仏法の智慧を知っていただくことで、なにかその方のプラスとなるように、生きることの尊さを伝えられるようにとお話したり、執筆したりしているのです。
なにも大がかりな講演活動をしなくても、ささいなきっかけからいくらでも密度の濃い法座が開けます。
私はそうした草の根の布教活動のなかで、日常生活と仏教との新しい関係を生み出すことができるのではないかと思っています。それには、私ども仏教者の積極的な働きかけが欠かせません。地道ではあっても、その先に新しい仏道の世界が必ず見えてくる、と信じて実行を続けています。」

このコロナ禍で、私たち僧侶が何をしていくか。このことを問われていると思います。目の前のことに真摯に向き合っていくことこそが、「寺つくり」につながっていくと信じています。

先日の鎌倉円覚寺・横田南嶺老大師さまのYouTube配信で、ハッとさせられるお言葉がありました。

「いろんなことがあっても変わることなく、そこにお寺があることが大切なのです」

お寺は存在し続けることに意義がある。では、お寺を存在させ続けるにはどうすればいいか。
簡単に答えのでることではありません。そのことは、われわれ僧侶に課せられ大きな責任であると思うのです。そしてその答えは、誰かが丁寧に指し示してくれるわけではありませんし、教わることでもありません。私自身それぞれが人生をかけて、しっかり見出していかなければならない問題なのです。

陽人さんと出会い、「お坊さんは顔、声、姿」という言葉をよく思い出します。小池さんからにじみ出てくるもの、それは「弘法大師の願い」であるように感じています。往復書簡は小池さんのお返事をまって終わりとなりますが、これからもお互い切磋琢磨できればうれしいです。今のところ大きく遅れをとっておりますが。

貴重な機会をありがとうございました。心より感謝申し上げます。