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ブータン仏教

第5回「ブータンにおける戦争と仏教」

熊谷誠慈(くまがい せいじ)
京都大学こころの未来研究センター准教授

1980年広島市生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了、文学博士。京都大学白眉センター助教、京都女子大学専任講師を経て、2013年より京都大学こころの未来研究センター准教授。2018年、ウィーン大学客員教授兼任。
専門は仏教哲学(インド・チベット・ブータン)およびボン教研究。主著書に『ブータン:国民の幸せをめざす王国』(創元社)など。

第1回からの当連載はこちらから御覧ください。

仏教における最大の罪の一つは殺生です。その殺生の最たるものは戦争でしょう。「幸福の国」ならば戦争などしないはずだとも思われがちですが、意外なことに、ブータンは複数の戦争や内戦を経験してきました。ではブータンは、仏教国として、戦争という殺戮行為とどう向き合ってきたのでしょうか。ブータンの文化や歴史について数々の著書を出版してきたブータン人作家のツェリン・タシ氏は、ティム・フィッシャーとの共著の中で、自らも従軍した2003年のアッサムゲリラ組織との戦争について回顧しています。

1990年代、ブータン南隣のインド共和国アッサム州において、ゲリラたちが独立運動を展開しました。アッサム州の先住者ボド族の急進派であるボド防衛軍(BSF:Bodo Security Force)や、アッサム州の独立を目指すアホーム系のアッサム統一解放戦線(ULFA:United Liberation Front of Assam)などが、インドからの分離・独立を要求し、インドの官公署やベンガル人移住者たちを襲撃していきました。

これに対してインド政府は猛反撃に出ました。インド軍に敗走したゲリラ部隊は、国境を越えてブータン南部の密林地帯に拠点を移しました。当該地帯はブータン領内ではあるもののブータン人は住んでおらず、ゲリラ組織にとっては格好の隠れ家でした。ブータン政府は、1997年から2003年にかけてゲリラ部隊に退去要請を行い、4代国王自がゲリラキャンプに出向いてまで国外退去を要請しましたが、ゲリラ側は退去を拒否しました。

膠着状態の中、インド政府は、ゲリラをかくまっているとしてブータンを批判し、2003年末までにアッサムゲリラをブータン南部から一掃しない場合、3万人のインド正規軍をブータンに派兵し掃討作戦を開始する、との最後通牒をブータン政府に突き付けました。

2003年秋、ブータン国会は、軍事行動によりゲリラ部隊を国外へ退去させることを決議しました。政府首脳、閣僚、軍総司令官はじめ中央政府を首都ティンプに残したまま、四代国王自身が、ブータン軍兵士および国民義勇兵の陣頭指揮を執り、軍事作戦を行いました。作戦は2日で終了、ゲリラ勢力はブータン領内から一掃されました。

軍事行動を進めるに当たり、ブータン側は細心の注意を払いました。開戦に至るまで、国王が自ら直々にゲリラキャンプを訪問したり、内務大臣がゲリラ組織の幹部を首都ティンプに呼んで国外退去を懇ろに説得したりと、ブータン政府としてできる限りの交渉を粘り強く続けました。そしていよいよ開戦前夜には、最高司令官である国王が、開戦の辞を述べた後、高僧に次のような法話をさせました。

 

あなた方は兵士だが、慈悲心を持たねばならず、敵であっても、他の人間と同じように扱わねばならない。そして何よりも、仏教徒として、殺生が許されると思ってはならない。

 

ここには同国王の深い葛藤が認められます。すなわち、国家元首として軍事作戦を行って領土を守る必要がある一方、その軍事作戦が仏教では「殺生」という最悪の大罪になってしまうという葛藤です。結果、国王はブータン王国の国家元首として軍事作戦を進める一方、仏教国としてのブータンを代表する僧侶は殺生を戒めるという形を採ることになりました。つまり、国王は仏教徒としての悪行を行うという認識のもと、国家元首としての役割を果たしたのです。ここには、戦闘行為そのものは仏教徒として何ら正当性を持ち得ないものの、せめて敵にも敬意を払い、自らを諫め、互いの犠牲者を最小限に抑えようとする慎重な姿勢が窺われます。

その後、ゲリラとの戦闘に突入したが、わずか2日でブータンの勝利に終わりました。ゲリラ側の証言によると、捕虜に対する扱いは丁重そのもので、虐待などは一切なかったとのことでした。

また、ブータンの戦後処理は実に慎重なものでした。ブータン軍最高司令官の第4代国王は、「戦闘が終わったからといって喜ぶ理由は何もない」、「戦争行為において誉れと言えるものは何一つない」、「いつの時代にあっても、国家にとって最善なのは、係争を平和裏に解決すること」などと終戦訓話を述べ、戦闘そのものに関しては一貫して否定的な態度を取り続けました。

国営新聞のクンセル紙も戦勝報道は行わず、次のような反省の弁を社説として発表しました。

 

今になっても支配的な感情は、後悔と憐憫であるというのは、ブータンの、ブータン人の性格であろう。私たちは、アッサムおよび西ベンガルの人たちに、変わることのない友情を誓った。不思議なことに、この作戦の全期間を通じて、いかなる敵愾心もなかった。あったのは、「残念ながら、必要に迫られて、軍事作戦を避けることができなかった」という後悔だけであった。

 

また、戦勝記念行事は行われず、代わりに慰霊塔が建てられました。ドルジ・ワンモ・ワンチュク4代国王妃は著書の中で、次のように回顧しています。

 

勝どきもなく、戦勝式典もありませんでした。それは、ブータン人の気質ではありません。わたしたちは、バターランプを灯し、戦争で命を落とした11名のブータン人兵士と、同じく戦死したゲリラたちの冥福を祈りました。

 

ブータンは、主権国家として自国の領土を守るための行動を起こす必要があったわけですが、敵(ゲリラ側)に敬意を示すとともに、仏教国として殺生という大罪を犯す戦闘行為に対して一貫して否定的でした。現在までゲリラ組織側からブータンへの報復は行われていませんが、それはこうしたブータン側の配慮に呼応しているのかもしれません。
ドチュラ峠に建てられた戦没者慰霊のための仏塔群

次回はついに最終回「日本の仏教はブータンから何を学べるか」について書こうと思います。