カテゴリー
ブータン仏教

第4回「ブータンにおける社会問題」

熊谷誠慈(くまがい せいじ)
京都大学こころの未来研究センター准教授

1980年広島市生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了、文学博士。京都大学白眉センター助教、京都女子大学専任講師を経て、2013年より京都大学こころの未来研究センター准教授。2018年、ウィーン大学客員教授兼任。
専門は仏教哲学(インド・チベット・ブータン)およびボン教研究。主著書に『ブータン:国民の幸せをめざす王国』(創元社)など。

第1回からの当連載はこちらから御覧ください。

ブータンといえば「幸せの国」。多くの場合、幸せの側面で語られます。しかし、ブータンにも苦難や不幸があるということをご存じでしょうか。

近代化・国際化における伝統との軋轢と融合

ブータン国内にも困難な問題が多数存在しています。その一つが、伝統と近代化・国際化との衝突でしょう。ブータンは長らく鎖国政策を取っていましたが、1970年代の開国以来、国際化が加速していきました。特に、1999年にインターネットと海外のテレビ放送が解禁されるや否や、世界中の膨大な情報が流入するようになりました。ブータンの公教育では英語で授業が行われており、若者の殆どが英語に精通しているため、若者たちは欧米文化の影響を強く受けることになりました。欧米の文化に憧れを抱くことは当然、自国の文化を疎かにすることに繋がる可能性も出てきます。

またブータンでは都市化が進み、若者たちが都市部に集中するようになりました。それにつれて、高層建築が乱立し、おびただしい数の商店や飲食店が軒を連ね、近代的な都市の景観が見られるようになってきました。

こうした状況を予測していたのでしょうか。1980年代末に、第4代国王は「ディクラムナムザ」と呼ばれる伝統作法を導入しました。それにより、ブータン人は、役所や僧院などに入場する際に伝統衣装の着用を課し、建物にはブータンの伝統的装飾を施すことを義務づけられ、伝統保護の意識が高まっていきました。この政策は、高圧的な民族同化に繋がりかねないという点で批判も受けましたが、近代化・国際化の奔流の中で、一定の伝統保護に貢献する結果となりました。

若者の抱える問題

ブータンでは福祉の意識が高く、医療と教育は無償です。その点は海外からも高く評価されていますが、同時に弊害をもたらしてもいます。教育が無料となり、多くの大学が設置されたことで、若年層が急激に高学歴化していきました。結果、農業や伝統産業に従事することを拒む若者が増加し、若者の大半が首都ティンプなどの大都市に流入することになりました。しかし、都市部での仕事の数も限られており、若者の失業問題が深刻化しました。もちろん、都市化が進む中、土建業などの仕事は増加していますが、大学卒の若者たちは、ブルーカラーの職種を嫌うため、それらの仕事には、専らインドやネパールからの外国人労働者が従事しています。

2008年~2012年のジクメ・ティンレー政権も、失業問題に対する無策が批判を受け、政権交代の要因の一つともなったと言われています。2013年~2018年のツェリン・トプゲ政権も、若者の失業問題を解決できず、政権交代の要因の一つとなったものと思われます。若者の失業問題は、国力衰退に繋がりかねない慢性的な課題となっています。

こうした中、ブータン人の若者の起業支援を行う動きが民間から出始めました。例えば、ブータンを拠点とするロデン財団は、若者の起業支援を積極的に進めてきました。ロデン財団が監修したドキュメンタリー映画『メイド・イン・ブータン』の中では、近年、ブータンの若者たちが、ごみ収集業や清掃業、建設業など、これまでブータン人が拒んできた職種に取り組む様子が描かれます。このように、職種に対する若者世代の見方が変革しつつあります。今後、外国人労働者に委託していたブルーカラーの仕事を、ブータン人が積極的に行うようになれば、失業問題も多少は改善することでしょう。

また、近年、インドから安価な化学薬物が流入し、都市部の若者を中心に薬物汚染が広がりつつあります。薬物問題の放置は当然、治安の悪化のみならず、国力の低下に繋がっていきます。薬物に依存する若者の多くは、無職など、将来に悲観的な者が大半です。したがって、失業問題の解決は、薬物汚染など他の問題に歯止めをかける意味でも重要な課題なのです。

ネパール難民問題

異なる民族が争う時、その犠牲者は死者だけではありません。紛争を避けるため、或いは強制的な排斥によって、住処を追いやられる人々がいます。多民族国家であるブータンは、移民や難民の問題も抱えてきました。

19世紀後半、インドを支配していたイギリスは、ブータン南方に接するダージリンやアッサム地域で茶園を経営し始めました。その際、人口の多かったネパール東部から、大量の労働者を呼び込みました。これらのネパール人労働者の中には、ブータン南部のジャングル地帯に入植していく者も出始めました。しかし、1500メートル以上の高地に住むブータン人たちは、こうした初期のネパール人移民に対しては無関心でした。かくして、20世紀前半には、相当数のネパール人がブータン南部の密林地帯を開墾し、農業に従事するようになりました。

1950年代、移民問題は野放しにできない状態に達していました。1958年には、腰を上げたブータン政府が、ネパール系住民に居住権を認め、有資格者で国籍を申請する者には国籍を与え、その他の移住者は外国人滞在者として登録する制度を整備しました。

1988年に行われた全国人口調査の結果、ブータン南部ではネパール系の人口が過半数を占め、ブータン全体でも総人口の約3分の1を占めていたことが判明し、危機感が高まりました。というのも、ブータンの西隣にあったシッキム王国は、ネパール系移民の人口がシッキム系の人口を超えた結果、インド共和国に併合されてしまったのです。そこで、ブータンは外国人に対して入国制限を設けました。当時のブータンには、以下の三種類のネパール人がいました。

①ブータン国籍を持つネパール系住民
②滞在許可を持つネパール人合法滞在者
③滞在許可を持っていないネパール人不法滞在者

このうち、ネパール人不法滞在者に対しては国外退去命令が出されました。もちろん、不法滞在者を国外退去させるという行為自体は、主権国家として何ら問題なかったわけですが、人口調査、国籍の認定、国外退去命令の施行のプロセスにおいて、強制的な排除など、配慮に欠ける点が多々あり、ブータン政府と一部のネパール系住民との間に軋轢が生じました。

1990年秋、ブータン南部で大規模な反政府デモが起こりました。以後、ネパール系住民の多い南部では、ネパール系の反政府グループによるテロ行為から治安が悪化し、多数の難民を生み出しました。難民収容のため、東ネパールに難民キャンプが設けられ、1994年初頭には難民数が8万5000人に、ピーク時には11万人に達したとも言われています。なお、1993年9月には、ネパールとブータンの閣僚級合同委員会が設けられ、難民キャンプの調査と解決に向けた取り組みが始められました。調査の結果、数パーセントの難民が、ブータンから強制的に追放されたネパール系ブータン人と認定され、ブータンへの即時帰還の権利が認められました。他の難民も、その大半がアメリカやカナダ、オーストラリアなどの第三国に移住しており、難民キャンプそのものは縮小し、表面上は解決しつつあるように見えます。しかし、必ずしも難民たちの望む形ではなかったため、本質的な解決とは言えないのが実情です。実際、この難民問題に関してブータンは、国際機関やメディアを通じて多くの批判を受けてきました。国民総幸福を掲げる仏教国として、今後ブータンがこの問題に対してどのような態度を取っていくのかが注目されます。

次回は「ブータンにおける戦争と仏教」について書こうと思います。