秋田 光彦
(應典院)
親しい研究者と現場の社会活動僧侶ら8名で本を書いた。4月4日に発刊となった「ともに生きる仏教〜お寺の社会活動最前線」(ちくま新書)だ。カバーの袖にはこうある。「地域社会の過疎化によって仏教の衰退が問題化する一方で、2000年代以降、仏教界では新しい世代による『仏教の社会活動・文化活動』の波が訪れている」。
登場する活動現場は、貧困問題、被災地食糧支援、グリーフケア、さらにお寺アイドルまで多岐に渡る。これが宗門内の活動なら、まず宗義の宣揚であり、教団や檀信徒の合意がなくてはならない。むろん大事なことなのだが、それにこだわっている限り、社会の課題に目は行き届かないし、これほど「個の魅力」は跳躍しない。90年代後半から、市民社会やNPOの思想や方法が、仏教の世界にも浸透した結果だろう。
一方で「NPOと同じじゃないか」「仏教はどこにある」というようなご批判を受けてきた(最近少なくなったのは、住職世代が若返って、認知が高まったからだろうか)。社会活動は僧侶にとって自らのアイデンティティである教理の社会的実践であり、また再認識の場だと思うのだが、それは措いたとして、NPOとは全く異なる3つの特色がある。歴史と物語と、そして死者である。
仏教の社会活動の多くは、お寺が拠点となる。全てのお寺にはそれぞれが根ざしてきた地域があり、ローカルな歴史で結ばれている。学校で習うような権力の歴史ではなく、無名の人々が綴ってきた独自の歴史である。
また、終活が死んだ後の手続きを売りにしているのに対し、仏教は死では終わらない物語を記述し続ける。死後のビジョンを語ることは、科学を超えたナラティブの力である。
日本では、古来からコミュニティは生者と死者と自然によって成り立つとされてきた。先祖という死者とともに地域を構想し、生者優先の生産性や合理性を問い直すのである。
NPO的ではあるが、NPOではない。その3点は、仏教の社会活動に共通する主題と言ってもいい。
私は同書の8章「NPOとの協働から、終活へ」を担当し、應典院の20年を振り返りつつ、現在取り組む「おてらの終活」について書いた。これもまた、死後サービスの終活を超えて、死と向き合いながら人生を成熟させていく新たなご縁づくりを提案している。その拠点として、新たなお堂「ともいき堂」を再建、そのねらいと経緯とについても書いている。
多死と孤立の時代、ともに生きともに往く「ともいき」の広場として、お寺は社会的役割を大きくしている。「ともに生きる仏教」とは、これからのお寺が目指す新たなメルクマールなのである。