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井戸端コラム

私の伝える道(西原龍哉)

浄土真宗天真寺副住職
西原龍哉

私の伝える道~仏法から教わったこと~

学生時代、さまざまなアルバイトを経験しました。その中で印象に残っているのは大学時代のアルバイト。お酒を飲むお店で働く、いわゆる夜の仕事です。 夜の仕事では、とにかく売り上げが重視されます。主にお客様が支払うお金である飲み代によって、働く人たちのお給料が変わってきます。
その結果、ナンバーワンになって大金を稼ぐ人もいます。ナンバーワンになるためには、お客様を喜ばせ、たくさんお酒を飲まなければなりません。努力の末、やっとナンバーワンの栄光を勝ち取っても、今度はそれを維持しなければならない苦労です。次から次へと新しい人も入ってくるなかで、それはとても大変です。夜の世界は、華やかな反面、浮き沈みの激しい厳しい世界であることを学びました。

そんな世界を見ていて、「しあわせ」って何かを考えさせられました。

今求めているしあわせは、人と争わなければ手に入れられないもので、たとえ手に入れてもほんのひと時のものです。
手に入れた途端に、失う不安にも苦しめられます。これが本当のしあわせなのだろうか、と。そんな時、「人生は苦」というお釈迦様の言葉に出あいました。

学生時代は、自分のことだけを考え、楽しいことだけを追い求めていましたが、そんな生活に初めて疑問が生じました。

「本当のしあわせってなに?」

そんな思いをもって、仏法の道に入りました。

私たちが日常漢字として使用する場合、「しあわせ」は、「幸せ」と書きます。これは「獲得することによる幸福感」をあらわします。
しかし辞書で調べると、最初に出てくる漢字は「仕合わせ」で、「つかえあう、めぐりあう」という意味です。めぐりあいはさまざまで、それは自分にとって都合が良いものだけとは限りません。

仏教には、「冥加」「顕加」という物事の見方があります。「冥加」とは、知らぬうちに受ける仏の助けやご加護をいい、目に見えないはたらきを見る見方です。それに対して「顕加」とは、表に顕わになっているもの、目に見えるものだけを見る見方で、まさに私のものの見方です。

しかし、物事は目には見えないけれど、途方もないご縁によって支えられているというのが真実です。自分中心の世界から、その背景に広がるもっともっと深い世界に目を向けた時、どんなことも「これもご縁」と感謝できる心が育まれるのでしょう。

仏法を聞き、今生かされていること、途方もないご縁よって支えられていること、そんな大切なことに気づかせていただいたことが、今の私のしあわせです。そしてこのしあわせを多くの人に伝えていきたいと願っています。