【テンプル・バトン】その7-2(浄土真宗 福山智昭師)
小川 大心さんより、「ご縁」をテーマに、数珠つなぎ法話のバトンを賜りました。企画くださったみなさま、有難うございます。(浅野 智弘さんと二手に分かれますが、それもまたお楽しみくだされば幸いです)。福岡県大牟田市にあります浄土真宗本願寺派明行寺の福山智昭です。
表題:僕らは「ご縁」で出来ている
緊急事態宣言以来、自宅で過ごす時間が増えました。どうしたものかと考えながら、2018年秋に放映された『僕らは奇跡で出来ている』というテレビドラマを鑑賞。(ちなみにamazon primeです)「奇跡」という言葉は仏教ではあまり馴染みがありません。試しに広辞苑を開いてみました。
き‐せき【奇跡・奇蹟】ー(miracle)常識では考えられない神秘的な出来事。既知の自然法則を超越した不思議な現象で、宗教的真理の徴と見なされるもの。「―が起こる」
なるほど。私にとっての「奇跡」とは、「ご縁」と言えるかもしれない。そんなことを考えながら、どれどれ、とドラマを進めておりました。主人公は大学で動物生態学を教えている相河先生。生き物の不思議を追いかけることに没頭し、時に周囲を困らせ、苛立たせてしまう変わり者。しかし、何事もありのままに受け止める彼の言動が、周囲の人々の「常識」に捉われて固くなった心を、緩やかに解きほぐしていきます…
ある時、相河先生を慕い、動物のことを尋ねに来た小学生の虹一君が、母親に叱られる場面が描かれます。実は、虹一君は塾をサボって来ていたのです。
「虹一、あなた塾に行かずにこんなところで何してるの!ダメな子!どうして皆と同じように出来ないの!」という母親に対し、虹一君は「僕はダメな子じゃない!」とその場を走り去ってしまいます。
お母さんと二人になった相河先生。自身の想いを率直な言葉で語り始めます。
「虹一君はダメな子なんかじゃないですよ。僕は彼と一緒にいると本当に楽しいです。僕も子供の頃、皆と同じように出来ないことを責められました。でも中学の時、理科クラブで初めて褒められました。生き物のことで一番になって、今まで僕を馬鹿にしてきた奴を見返してやると思いました。でもそうすると、生き物の観察が楽しくなくなり、とっても辛くなりました。そんな時、祖父が『やりたく無いことは辞めれば良い。またやりたくなったら始めたら良い』と笑ってくれました。あの頃の僕は、自分のことが嫌いで嫌いで毎日泣いていたけれど、祖父のお陰で、理科が出来ても出来なくても『僕はここに居て良いんだ』と思えるようになりました。そうして少し、自分と仲良くなれたのです。どうか他の誰でもない『彼自身』を見てあげませんか」
虹一君の悲しみを、自分の悲しみとして受け止めた相河先生の言葉は、まるで阿弥陀様のお慈悲の一端を知らせてくださっているようでした。
「南無阿弥陀仏」のお呼び声が、何故か私の口から出てくださるこの不思議。これは、私に「変われ」と言うのでなく、「そのまま救う」と受け止めてくださるお慈悲のお心が、まさにこの私に届いて下さっている動かぬ証拠です。怒り、貪る愚かな存在であるこの私を、そのまま救われる身へと、お育てくださっている。まさに有ることの難い、ご縁の大渦の中に私は生かされている、と思わず合掌し、「お陰様です」とお念仏申しました。
ところで、「縁」があるからには、「因」があります。阿弥陀様が私を救うため、長い長い間功徳を積んで、そのご修行を完成されました。わたしをそのまま救ってくださる仏様に成られたのです。これが「南無阿弥陀仏」の正体。ここに、今私に届いてくださるご縁の確かな由来を知らされます。
「奇跡」同様、「ご縁」もまた、自らの手によって起こすものではなく、偶然起こるものでもありません。ひとつひとつの繋がりの中で、私が生まれ、生かされて、最期には救われていく命であると知らされる。当たり前だった日常が、掛け替えの無いご縁に包まれた日日へと転ぜられる今を、私たちはいただいています。まさに「僕らはご縁で出来ている」ですね。 称名
次のバトンは、日頃より沢山の方を繋ぎ、ご自身は御恩報謝を地でゆくパワフル僧侶、熊本県宇土市の真宗大谷派光照寺 糸山 公照 (Syaku Ko-show)さんお願い致します!
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