このコラムは修験道(本山修験宗)の宗派機関紙に聖護院門跡門主猊下が、平成三十年が戌年ということで、犬に関するエピソード寄せられたものです。それが僧侶というパブリックな立場のものというよりは、近所や知人などのエピソードなど、宮城泰年猊下のプライベートな面が前面に出ている文章なので、増田が仏教井戸端トークサイトのコラムへの転載の許可を求め、許可を得て転載するものです。このコラムにはそうした経緯があることをご理解ください。
聖護院門跡門主
宮城泰年猊下
中型の雑種犬を飼っていたことがある。猫が先輩の我が家に来て当然猫の方が強い。そのうち仲良くなるのだが、地上だけである。ご機嫌悪くなった猫が樹上にあがりかれは樹に抱きつくだけで如何ともし難かった。
当時イチジクの実をとるために土塀に上がるはしごをかけていた。彼はいつの間にか梯子によじ上り、駆け上がる術を会得してしまった。面白いのか毎日屋根に上り猫を追っかけるものだから瓦のずれることおびただしいが、彼のために梯子は外さず、一年中土塀に架けてあった。
それはお出迎えのためでもあった。私たちが外から帰ってくると参道にとりかかる前に家族の足音を聞き分け、脱兎の如く土塀に駆け上がり、尻尾を大振りする。一度も足を踏み外すことは無い名犬だった。
ただ彼を最後に犬を飼うのはやめた。五大力法要の翌日、急に立てなくなった。病気だったのだ、とても忙しい時期であり医者につれてゆけなかった。その翌日横になった彼は訴えとも何とも言えない哀惜の眼を私に向けて涙を流した。
第一次南極越冬隊員であった地球物理学者北村泰一氏は犬係であった。第一次越冬隊は天候の都合で先に交代船に戻り第二次越冬隊はブリザードのため基地に向えず、十五頭の犬は置き去りとなったのだった。
このことは彼が著した『南極物語』や『南極越冬隊 タロジロの真実』に詳しい。第三次で再び基地を踏んで二頭に再会、タロとジロであった。彼は帰国後、十三頭の犬を提供してくれた家々を回っている。それは救えなかった巡礼の旅でもあった。
数年前まで博多の彼の家には年老いた大型犬がいた。それは盲導犬として活躍していたのだったが老衰し、施設から彼が引き取って面倒を見た。居間に飼い、便の世話から立ち居の介護迄人間と同じだった。彼の贖罪の思いを感じ取った。
彼は七十歳のとき「十年後の八十歳の時がオーロラの発生率が高い。その時は一緒にカナダに行こう。」と約束し、辰年に私夫婦の仲間二十五人、彼を講師として実行し、オーロラに胸を躍らせた。
夜の講義で、失恋した大ボスの犬がプライドの痛手から吹雪の中を走り去り、行方をくらました話には胸を詰まらせた。
そして次の周期九十二歳にも出来たら・・との約束もあったが、彼は今南極犬に思いをはせながら療養施設にいる。