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[第四回]禅者とは、地獄で仏法を説く者と心得た

細川晋輔(ほそかわ・しんすけ)
1979年生まれ。松原泰道の孫。佛教大学卒業後、京都・妙心寺専門道場にて9年間禅修行。東京都世田谷区・龍雲寺住職。花園大学大学院文学研究科仏教学専攻修士課程修了。
臨済宗妙心寺派東京禅センター副センター長。妙心寺派布教師。NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』禅宗指導、『麒麟がくる』仏事指導。

ここまでのやり取りは、こちらから御覧ください。

陽人さん、いつもお世話になります。
最近、この交換日記の他にも小池さんと一緒に学びを深める場をいただき、そのご縁にも感謝しております。
人生において不要と思われるトラブルも、時として自分を成長させてくれるものなのですね。

トラブルがある可能性を受け止めてでも、何か行動してみると、必ず何らかの学びがあることを実感しております。

まずは先日の円覚寺管長・横田老大師と小池さんとのお話で話題にあがった「伝える」ということについて。あの後ご丁寧に、管長様が色々と教えてくださいました。さすがの記憶力であられるなと、あらためて感服いたしました。

祖父である松原泰道師の著書より引用した言葉をご紹介いたします。
禅の教えを話伝えること(布教)は、当時(戦後すぐ)メジャーではありませんでした。むしろ禅宗の和尚様からお叱りを受けていたのです。「禅宗坊主はペラペラしゃべるな。そんなヒマがあるのなら坐禅しろ!」と。
それでも祖父は浄土真宗の金子大栄先生から、「布教」というものを教えていただいたそうです。金子先生は、「布教にあっては『説き尽くす』と『説き明かす』とは別次である」として、次のように言われます。

「仏教の真義は文字や言葉で説き明かせるものではない。だからといって腕組みをしてなにもしないのは、仏法を傷つけるものだ。説き明かせないぎりぎりのところまで、あらゆる方法を講じて説き尽くすのが布教である」

もう一つは、後藤瑞巌老師がジョークを交えてさりげなく祖父に話した言葉になります。

「売り惜しみをする禅者があるな、説くことのできるテーマでも、『ここは坐禅をせねば分からぬ』と言って、口を閉じるのもその一例さ。文章で説明できる禅語も、『これは文字や言葉では表現不能』と。それは布教の怠慢というものが。そんなにお高くとまってはいけない。聴衆の方で、『このテーマは、これ以上はめいめいの体験に依らなければ・・・』と納得するところまで説くがいい。それには机の上だけの勉強では足りない。いつも坐禅をしていないと行きづまるぞ」

耳が痛い一言ですね。

さて、ご質問の「発心」について。言うまでもなく私は、仏門に入るため、悟りに到るために最も大切なものだと思っています。実はそれが一番欠けているのが、私のようにお寺に生まれ育った者なのかもしれません。
なぜなら、自分が育った家(寺)を継ぐために、修行道場にいくという動機が、そもそも「発心」からかけ離れていることを実感しているからです。

修行道場に頭を丸めて入門したのは、まさにその理由でした。禅についての興味、禅問答を解明したいという志よりも、日めくりカレンダーをめくっていくような年季奉公の気持ちであったかもしれません。

そんな私にも、「発心」の縁がありました。それは明るく輝かしい出会いというにはほど遠い、二人の大切な人との悲しい死別でした。

一人目は、京都での修行中でした。友人の死を受け入れることができなかった私は、禅問答の先にこそ、その答えがあると考えるようになりました。それが「やらされる修行」から「やる修行」に変わった瞬間でした。まだ書きたいことはありますが、字数の関係もありますので、今回は次に重きを置きたいと思います。

二人目は、祖父・松原泰道師との別れです。祖父の遺偈(遺言の漢詩)は以下のようなものです。
「私が死ぬ今日の日は 私が彼土でする説法の第一日です」
「彼土」というのはあの世のこと。「私が死ぬちょうどその日は、あの世で説法をするちょうど第一日だ」というのです。
しかし私がその時に直接聞いた遺言は、先に挙げたものとは二文字違っていました。
「私が死ぬ今日の日は 私が地獄でする説法の第一日です」
これを聞いたとき、私は素直に納得することはできませんでした。何でわざわざ「地獄」で説法するんだろう。誰が好き好んで、自分から地獄へ墜ちていくのだろうか――。
祖父ほど世のため人のために尽力した人なら、きっと極楽にいけるはずと思ったからです。

しかし、よくよく考えてみるとこの「地獄」という言葉に大きな意味があったのです。
救う必要がない人たちがいる極楽よりも、今まさに悩み苦しんでいる人たちがいる地獄に自分も墜ちて、禅の教えや仏教の教えを説き尽くしたい。
百一歳で亡くなるまで、布教一本を貫き、「生涯現役、臨終定年」を掲げていた祖父らしい言葉です。
今頃も地獄のどこかで汗にまみれて、布教に走り回っている祖父の姿が目に浮かぶようです。「生涯現役」どころか「死んでも現役」。定年もまだまだ先のことのようです。
この言葉は私にとって、「地獄で説法するくらいの強い気持ちをもって、布教に取り組まなければならない」という強烈なメッセージでした。

これが私の二つの発心です。

では私から陽人さんへの質問です。YouTubeで活躍され、最近ライブもされている陽人さん。オンラインのメリット、デメリットについて、お聞きしたいです。これからどんな可能性があるか?それと気をつけなくてはならないことなど。

次第に春めいて参りました。くれぐれもご自愛ください。

細川晋輔