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ブータン仏教

第3回「ブータンのGNH(国民総幸福)政策と仏教」

熊谷誠慈(くまがい せいじ)
京都大学こころの未来研究センター准教授

1980年広島市生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了、文学博士。京都大学白眉センター助教、京都女子大学専任講師を経て、2013年より京都大学こころの未来研究センター准教授。2018年、ウィーン大学客員教授兼任。
専門は仏教哲学(インド・チベット・ブータン)およびボン教研究。主著書に『ブータン:国民の幸せをめざす王国』(創元社)など。

第1回からの当連載はこちらから御覧ください。

GNH(国民総幸福、Gross National Happiness)という概念は、1970年代にジクメ・センゲ・ワンチュク第4代ブータン国王(1955-)が、国際会議後の記者取材の中で、「GNHはGNPよりも重要である」と述べたことに始まります。

当時、各国がGNP(国民総生産、Gross National Product)を最優先していた中、第4代国王は、幸せはお金以上に大事な要素だとしてGNHを国策の主軸に据えました。2008年に制定されたブータン王国憲法第9条第2節では、「ブータン王国は、国民総幸福の追求を可能にする諸条件を促進する努力を行う。」と、GNHの促進が明示されています。

したがって、ブータン政府のすべての政策が、GNHの理念に基づいていなければならないことになるのです。ブータンには、GNH委員会という組織が存在しています。首相を議長、財務大臣を副議長とし、各省庁の事務次官などを加えた計15名のメンバーから構成されています。ある政策案が仮に経済成長に効果的なものであったとしても、例えば環境を破壊したり、コミュニティを侵害したりする可能性があるのであれば、それはGNH的ではないことになり、GNH委員会から再考・変更が促されることになります。新しい政策が上がってくると、GNHに関するスクリーニングが行われます。20数項目について4段階の評価を行い、評価の平均点が4段階中の3に満たない場合には、政策の変更が命ぜられるとのことです。例えば、2008年頃にWTО(世界貿易機関、World Trade Organization)への加盟が議論された際、当初は概ね肯定的に捉えられていたのが、スクリーニングの結果、GNHの理念にそぐわないという判断が下され、加盟が見送られることになりました。

このGNHには、後述の通り、4つの柱と9つの領域、33の尺度があります。「4つの柱」とは、「持続可能な開発の促進」、「文化的価値の保存と促進」、「自然環境の保全」、「善い統治の確立」です。経済的側面は、「持続的な開発の促進」という柱に含まれ、GNHを支える大きな軸の一つですが、逆に言えば、軸の一つに過ぎないのです。

また、GNHの「9つの領域」とは、「教育」、「生活水準」、「健康」、「心理的幸福」、「コミュニティの活力」、「文化の多様性・弾力性」、「時間の使い方」、「良い統治」、「環境の多様性・弾力性」です。ここでも経済的側面は、あくまで「生活水準」という一領域にすぎません。また、ここでの生活水準とはあくまで国民一人ひとりが営む生活の水準が問題となっているのであって、一握りの人間たちによる富の独占は否定されることになります。

彼らにとって経済は、先進国で考えられているほどの絶対的要素ではなく、あくまでGNHを支える4本柱の一つにすぎないのです。すなわち、GNPやGDPは、GNHの一部を占めているに過ぎないのです。つまり、幸福を得るために、経済成長は重視であるが、物質的に豊かになれさえすれば良いということではなく、物質と精神のバランスの取れた豊かさから、幸福を実現することが理想とされます。ここには、「物質のみ」、あるいは「精神のみ」といった両極端の考えを避ける仏教的な「中道」の思想が働いているものと思われます。

さて、GNH(国民総幸福)について考える際、注意をしておくべき概念が2つあります。まず、ブータン人にとって「国民」とは何を意味するのか。もう一つは、彼らにとって「幸福」とは何なのかということです。

まず、一つ目ですが、ブータンで「国民」という場合は、人間はもとより、他の動物も含まれています。これは、六道輪廻の思想に基づいて、人間と動物は生命体として平等であると考えられるためです。また、彼らは、「国民」といいつつ、実際には「地球的」な視野での幸福を考えているため、GNH(国民総幸福)というよりも、GGH(地球総幸福、Gross Global Happiness)と呼んだ方が正確でしょう。いやむしろ、人間を含む全ての生き物の幸福を目指している点では、GUH(普遍的総幸福、Gross Universal Happiness)と呼ぶのが正確かもしれません。これらの思考の背後には、自身や自国だけの利益という「自利」だけでなく、他人や他国を利するという「利他」の思想が存在しています。利他の思想こそ、ブータン仏教を含む大乗仏教の要諦なのです。

では、ブータンの人々のいう「幸福」とは何なのでしょうか。仏教徒にとっての究極的幸福とは「涅槃」です。だからといって、彼らは日常生活を軽んずることはなく、GNHに代表される世俗的幸福も大事にしています。すなわち、彼らにとっての幸福とは、「究極的幸福」と「世俗的幸福」の両者が互いに妨げ合わずに共存したものなのです。

次回は「ブータンにおける社会問題」について書こうと思います。