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ブータン仏教

第1回「ブータンの歴史と仏教」

熊谷誠慈(くまがい せいじ)
京都大学こころの未来研究センター准教授

1980年広島市生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了、文学博士。京都大学白眉センター助教、京都女子大学専任講師を経て、2013年より京都大学こころの未来研究センター准教授。2018年、ウィーン大学客員教授兼任。
専門は仏教哲学(インド・チベット・ブータン)およびボン教研究。主著書に『ブータン:国民の幸せをめざす王国』(創元社)など。

2011年に第5代ブータン国王ご夫妻が来日されて以降、ヒマラヤの秘境であったブータンは「幸せの国」として一躍有名になりました。新聞やテレビなどで、ブータンが特集される機会も増えてきました。とはいえ、この国については、まだ多くの部分がまだ知られていないように思います。特に、この国が敬虔な仏教国であるという点を忘れてはなりません。これから計6回のコラムを通じて、ブータンという国の歴史、社会、そしてその仏教文化の一端をご紹介できればと思います。

ブータンの地理

まずは、ブータンの地理を紹介しましょう。

ブータン王国は、ヒマラヤ山脈の東端の南斜面に位置しています。面積は九州や台湾くらいの大きさですが、標高差は極めて大きいのが特徴です。北は7000mを超える極寒の高山地帯ですが、南は標高150m程度の亜熱帯地域です。北に上がれば冬、南に下れば夏という不思議な国です。多様な気候風土が揃っているため、ブータンには多種多様な動植物が生存しています。また、各地域が山々に囲まれ交通が遮断されてきたため、相互に異なる言語や文化が形成されていきました。そうした言語や文化の多様性は、GNH(国民総幸福)を生み出すブータン文化の根底に存在しているものと思われます。

プナカゾンの後方に広がる山がちなブータンの風景(熊谷誠慈撮影)

ブータンの歴史

続いて、ブータンの歴史を概観してみましょう。

ブータン学の草分けともいえる歴史学者のマイケル・アリスは、ブータンで見つけた石器の形状から、ブータンの地には4000年前にはすでに人が定住していたのではないかと推測しています。ただし、科学的な調査がなされたわけではないため、ブータンの先史時代については今後の研究の発展を待つしかないでしょう。

歴史書や口頭伝承などによって歴史事象の検証が可能となる有史時代については、大きく3つに区分することができます。
(1)シャプドゥンによる建国以前(7~17世紀前半)
(2)ドゥク派政権時代(17世紀前半~1907年)
(3)ワンチュク王朝時代(1907年~)

 

(1)シャプドゥンによる建国以前(~17世紀前半)

ブータンの地が初めて統一され、国家となったのは17世紀になってからのことです。しかし、それ以前からブータンには人が住み、文化がありました。

7世紀以降、チベット文化圏の南端の国として、チベットから大きな影響を受けるようになりました。ブータンの伝承では、7世紀前半には、チベット(吐蕃)のソンツェン・ガンポ王(581-649)が、キチュ寺(西ブータンのパロ県)などの仏教寺院を建立したと言われています。また、タクツァン寺(西ブータンのパロ県)など、8世紀にブータンを訪問したとされるパドマ・サンバヴァ(グル・リンポチェ)に帰される寺院も複数存在します。

キチュ寺(熊谷誠慈撮影)

11世紀以降、チベットで仏教が復興していく中、チベット仏教の諸宗派が、南隣のブータンの地で積極的に布教を始め、荘園化を進めていきました。3000メートルを超えるチベット高原では得られる資源に限りがあったため、米・木材・紙・薬草・染料・竹製品などの産物が豊かなブータンは、チベット側にとって大変魅力的な地域だったのです。後にブータンの国教となるドゥク派は、13世紀にブータンに進出を始めました。

 

(2)ドゥク派政権時代(17世紀前半~1907年)

中央チベットの中南部に拠点を持っていたドゥク派に変革が起こったのは、17世紀前半のことでした。ドゥク派史上最高の学僧ペマ・カルポ(1527-1592)の死後、二人の化身候補が現れました。一人はドゥク派第17代座主のシャプドゥン・ガワン・ナムギェル(1594-1651)、もう一人はパクサム・ワンポ(1593-1641)でした。ツァン地方の摂政が後者を正当な化身と認定したことで、シャプドゥンはチベットからブータンへと拠点を移すことになりました。

シャプドゥン・ガワン・ナムギェル(熊谷誠慈撮影)

シャプドゥンがブータンに移動すると、ラマ五派と呼ばれる現地の仏教勢力との軋轢が生まれ、攻撃を受けることになりました。それらの勢力と戦い、撃退していく中で、シャプドゥンはブータン全土に勢力を拡大していきました。シャプドゥン率いるドゥク派は、ブータンの地を統一し、それまでヒマラヤの一地域にすぎなかったブータンが、初めて統一国家となりました。以後、ブータンは現地の言葉で「ドゥク派の国」(ドゥクユル)と呼ばれています。なお、ブータン(Bhutan)という呼称は、サンスクリット語のボーターンタ(Bhoṭānta, チベットの端)の発音がヒンディー語化され、英語化されたものです。以後、長期にわたりドゥク派による宗教政権が続きました。

 

(3)ワンチュク王朝時代(1907年~)

19世紀には、イギリスやインドの干渉により、国家運営が不安定となり内乱が多発しました。そうした状況下で、中央・東ブータンの領主であったウゲン・ワンチュク(1862-1926)がブータン全土を統一し、1907年に初代ブータン国王となりました。ジクメ・ドルジ・ワンチュク第3代国王(1929-1972)の時代には、近代化と国際化が進み、1971年にはブータンは国連に加盟しました。ジクメ・シンゲ・ワンチュク第4代国王(1955-)の時代には、近代化と国際化をさらに推し進め、国民総幸福(GNH)政策が開始され、ブータン王国は世界の幸福政策をリードしていきました。ジクメ・ケサル・ナムギェル・ワンチュク(1980-)が第5代国王の即位後には、絶対君主制から立憲君主制へと移行し、現在に至ります。

次回は「ブータンの仏教文化と現状」について書こうと思います。