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井戸端コラム

私の伝える道(吉田龍雄)

吉田龍雄
(浄土宗蟠龍寺副住職)

はじめましての方も、おなじみの方もいらっしゃると思いますが、ちょっと自己紹介をいたします。私は今、生家でもあります東京にある浄土宗のお寺で副住職をしています。過去本山に16年勤めておりまして、総務畑のお仕事から広報に携わるようになり、施設担当となったあとは、「山門の外にいる人達に安心の種をまく」をミッションに、アートやデザイン、ものづくりに重心を置いた越境コラボレーション等を手掛けておりました。

本山でのコラボレーションの中で、アーティストさん達から頂いたご縁が、自坊で伎芸の神様として知られている七福神の辯才天をお祀りしていることとも重なって、蟠龍寺では様々な表現者の方々とご一緒させて頂いて、年間30回くらいの行事を執り行っています。いわゆる「伝統文化」から「クラブカルチャー」まで、振り幅が広いと言えば聞こえがいいのですが、取り散らかしているように見えるくらい、仏教とはあたかも無関係と思われるようなことも含めて、今を生きる人達とご一緒できる場を作ってきました。

表現をする方は、独自の視座から今のこの世界を眺めています。思いもよらないようなアウトプットが、ご一緒している場に現れることもしばしば。これは実に刺激的であると同時に、その表現を受け取った人に多くの「問い」を投げかけます。

昨今の地元地域では、信仰や因習という言葉の外側にいる人達にとって、お寺は行く理由のない場所になっていると実感することが増えました。自分と同世代を見ても、お寺との関係を、過去同様に維持しようという人も少なくなったと感じます。私たち僧侶が、脈々と相承し続けてきた教えとの、最大の接点であるお寺を、どうやって今を生きる人達と交わるようにするのか?その答えの一つが「問い」なのではないかと考えています。

 

私達は時として、自分の見えている世界に拘泥し、身動きできなくなってしまう事があります。灯りも道標も見えず、自らが囚われている事にも気が付かず、途方に暮れてしまう。そんな時に、今見えている世界が絶対的なものなのか?ということを絶えず問うてくれる眼差しがあることは、ままならないこの世を生きる人達にとって、見えなかった世界が見えてくる助けになると同時に、その「問い」の起こる場が、現代においてあらためて発見され、受容されていくと思うのです。

私は仏教の眼差しをもって。アーティストさん達はまた異なる眼差しをもって。それぞれの視線が交差し常に問いが生まれる場として、今を生きる人たちとお寺を再接続する。そのつながりが安心の種を芽吹かせる縁になる。そう信じるが故に、これからも人と交わるために越境を続けていきたい。