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井戸端コラム

私の伝える道(小池陽人)

小池陽人
(真言宗須磨寺副住職)

初めまして。神戸市須磨区にあります大本山須磨寺 副住職の小池陽人と申します。

私は、平成296月よりYouTubeチャンネル「須磨寺 小池陽人の随想録」を開設し、2週間に1度、法話をYouTubeで配信しております。仏教界では、時に「40代でもまだ若手」と言われることがありますが、そのことを考えると30代前半の私などは、僧侶としては、まさに「ひよっこ」と言えるでしょう。そんな若輩者で浅学菲才の私が、YouTube法話や説法とは、とても言えないようなつたない話を配信することは、どんな批判を受けるのか、正直不安でいっぱいでした。

 今日、日本では、お寺、お坊さん、仏教と関わるのはお葬式の時か法事の時だけという方がほとんどかもしれません。家に仏壇はなくなり、墓じまいが増え、以前よりも仏教は生活から遠のいている気がしてなりません。けれども、実は、お釈迦様や真言宗の宗祖である弘法大師様は、まさに「今、この苦しみ多き人生を如何に生きていくか」その為の智恵を説かれているのです。私自身も、仏教の教えによって、物事の考え方、見方が変わり、楽になることがたくさんありました。なので、ことを始めるに当たっての不安よりも、私なりに、その教えを知っていただきたい、お伝えしたいという思いが強く、その思いのままYouTubeで法話の動画配信を始めたのでした。

 YouTubeの法話配信をはじめて、自分の僧侶としての意識が少しずつ変わっていったように思います。自分で言うのも変ですが、自分で自分が話す動画を見て、「立派そうなことを、もっともらしく話しているなぁ。」と思うことがあります。そして、それと同時に、自分に対して「自分で話していること、お前は、本当にできているのか?」「そのようなことを言える資格があるのか?」と自問自答がはじまります。その結果、未熟な自分自身に対して情けない気持ちになるのが常です。しかし、その後、少しでも自分の言葉に責任をもち、自分の行動を自分の放った言葉に近づけていきたいという気持ちになります。

 仏教を語るうえで、大切なことは、その語る言葉を自分自身が実践しているかということだと聞いたことがあります。「百の説法よりも、一つの実行」いうことです。

 ある先輩僧侶の方から「焦って何でも手を出し、行動するのはまだ早い。若いのだから、今は蓄える時期だろう。」とアドバイスをいただいたことがあります。まだ僧侶としての中身のない私のことを思い、そのような言葉をかけてくださったのだと思います。しかし、「やってみたい」と思ったら止められない性格の私は、その真逆を進んでいるような気がしてなりません。ただ、やれるだろうか、やれなかったらどうしようかと迷う心を放置して、「やってみたい」ことを確信のないまま行動に移すことも、時として大切なのではないかと弁解じみますが、思います。なぜなら、行動に移すことで、自分の至らなさに気が付き、次に何をすべきかが見えてくることがあるからです。謙虚さを忘れず、これからも私なりに仏教の教えを学び、実践していきたいと思います。

小池さんのYouTubeのチャンネルはこちらです。
須磨寺小池陽人の随想録