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[第四回] 小出→釈先生 「仏教の「大元」にはなにがあるんだろう?」

小出遥子(こいではるこ)

 釈先生、こんにちは。「仏教ファン」の小出です(笑)。

 えっ!? そうですよ。私は「仏教徒」ではありません。特定の宗派、特定のお寺に所属しているということが「仏教徒」の条件になるのだとしたら、私はそれには当てはまりませんから。

 ……なんてことを書きつつ、正直、これもまた偏狭な見方だよなあ、とムズムズしてしまいました。でも、そもそも、いまの日本には、なにをもってその人を「仏教徒」と呼ぶのか、明確な定義がありませんよね?(私が認識していないだけでしょうか?)

 もちろん、私は、仏教に多くを学んでいますし、これからも学び続けるつもりです。私という人間のものの見方、考え方、感じ方には、仏の教えがドーンと横たわっているし、私の足元には、広い意味での「仏道」がバーンと伸びている。その感覚があることは、私にとっては非常に確かであり、決して否定できるものではありません。精神的には、間違いなく「仏教徒」的な人間として生きています。

 しかしながら、やっぱり、どこか、「所属を持たない」自分に対して、ある種の負い目を感じていると言いますか、「こんな私が仏教徒を名乗って良いのだろうか?」という疑問は拭い去ることはできません。だから、苦肉の策として「仏教ファン」ということばを使っているんです。

 釈先生、そもそも「仏教徒」ってなんなのでしょう? 「仏教徒」に所属は必要なのでしょうか? 私と同じようなスタンスの人たち(あえて所属は持たずに、フリーランスの立場で、「よりよく生きる」道を仏教に求める人たち)って、現在、大変な勢いで増えていると思うんです。

こういう人たちに対して、いかにお寺という場所を開いていくか。これも今回の連載の核になりそうなテーマだな、と思いましたので、あまりに漠然とした質問であることは承知の上で、あえてストレートに投げさせていただきました。

◆そもそもどうして「教え」を伝える必要があるの?

 さて、前回、釈先生は、「お寺はそもそも何のためにあるのか?」という問いに対して、以下のようにお答えくださいました。

>み法(のり)を伝えるため、仏法を護持するため、み法と出遇うため、仏道を歩むため、修行するため、仏法を学ぶため、同じ道を歩む人々が集うためにあります。それが第一義です。

>宗派仏教としての日本のお寺は、浄土真宗のお寺は浄土真宗のみ法を伝えるために、日蓮宗のお寺は日蓮宗の教えを伝えるために存在するわけです。

「お寺は、仏教、仏法を伝えるために存在している」「宗派仏教に所属するお寺は、その宗派の教えを伝えるために存在している」ということですね。非常にシンプルで、力強いお答えです。

 でも、釈先生、ごめんなさい。正直にお伝えすると、私は、このお答えにまったく満足できませんでした。

 それぞれの宗派の教えを伝えるためにお寺という場は存在している。それは理解できたけれど、じゃあ、そもそも、どうして教えを伝える必要があるの? その教えを通して、いったいなにを伝えたいの? その「大元」には、いったいなにがあるの? ……そんな疑問が湧いてきてしまったのです。

「大元」にあるものを伝えるために、それぞれの宗派の教えがあるわけですよね? 教えは、その「大元」にあるなにかへの「はしご」と言いますか、そこへの気づきの「ヒント」のようなものなのではないでしょうか?

 とすると、お寺という場所の「第一義」は、「それぞれの宗派の教えを伝えること」というよりは、「仏教の大元にあるものに触れてもらうこと」になるのではないでしょうか? 教えは、あくまで「手段」にすぎないわけですから。こんな言い方をするとお叱りを受けそうですが……。

◆「キモい!」「怖い!」が正直なところ

 随分生意気な意見を述べてしまいました。ごめんなさい。でも、もしかしたら、ここまで視点を引いた方が、いろいろシンプルになるのではないかな、と感じたので、思い切って私見を述べさせていただきました。

 というのも、仏教に興味を持ちたてホヤホヤの人間は、お坊さんに、いきなり「各宗派の教え」を、熱心に、濃密に(笑)説かれたところで、はっきり言って戸惑うばかりと言いますか、もっとはっきり言ってしまえば「若干キモい!」「っていうか怖い!」(ほんとうにごめんなさい!)と感じてしまう……というのが正直なところなのです。

 釈先生も、前回、

>かつてのように強い宗派色を打ち出すとお寺の敷居が高くなってしまう。

とお書きになられていましたね。この「敷居の高さ」というのを、こちら側としては、ものすごくリアルに感じてしまうんです。

もちろん、「からだまるごと」「こころまるごと」で飛び込んでみなければ、仏教の本質を感じることはできないでしょう。それはわかってはいるのですが、やっぱり、どうしても、足踏みをしてしまう。

 お念仏にしろ、お題目にしろ、禅にしろ、密教にしろ、普段それらの文脈に親しんでいない人にとって、それぞれの宗派の教えは「どこに通じているのかもわからない、細くて狭いけもの道」です。この先には、きっと「なにか」があるのだろう。でも、その「なにか」がどういうものなのかがいまいちわからない。それをはっきり提示してくれるお坊さんにはなかなか出会えない。だからこそ、思い切って飛び込んでみる勇気を持つことができないのだと思います。

◆ニーズマターとミッションマターが重なるところ

 前回、釈先生より、非常に重要なご提案をいただきました。

>「お寺のあるべき姿」と「お寺の存続」という課題、いろいろややこしいところがあります。そこで、お寺の取り組みを「ニーズマター」と「ミッションマター」の双方に取り組む、そんなふうに考えるのはどうでしょう。現代人の求めにきちんと向き合う、あの手この手で関心を集める、そちらは「ニーズマター」です。

>しかし、現代人のニーズに合わせて本来の姿を見失ったり、伝統を手放したりすると、シンクレティズム化していきます。ですから、ニーズがあろうが、なかろうが、果たすべき役目に関しては「ミッションマター」と呼んで、ここを手放さないよう常に自問していくのです。

 「ニーズマター」と「ミッションマター」。このふたつは、はっきり分かれるところと、重なるところがありますよね。そのどちらが良いとか悪いとか言う話ではないのですが、私個人としては、後者の部分をより大切にした寺院運営が、現在、とくに求められているように感じています。

 「ニーズマター」と「ミッションマター」が重なるところ。これこそが、さきほど申し上げた「仏教の大元にあるものに触れてもらうこと」なのではないかな、と、私は考えます。「仏教の大元にあるなにかを伝えるために、各宗派の教えがある」。このシンプルな地点に立ち返ったとき、もっと広い視野で、お寺という場所の可能性について考えられるのではないでしょうか。

 つまりは、「そもそも、なんのために仏教を学ぶの?」「仏教を学んだら、どんな人生が待っていてくれるの?」というところですね。そんな素朴な疑問に、なにかしらのかたちで応えてくださることを、私たち在家の人間は、現代のお寺やお坊さんに期待しています。

 まあ、そもそも、その「大元にあるなにか」ってなによ!? ということになるのですが、それに関しては、次回以降、私の感じるところを、詳しく書いていきたいと思います。また、そこから、前回先生が最後にお書きになられていた「メタ場所論」につながるお話もできるのではないかな、と思っています。引き続き、よろしくお願い申し上げます。