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テラ未来予想図

[第三回]釈→小出さん「ニーズマターとミッションマター」

釈徹宗(しゃく・てっしゅう)

前回までの書簡はこちらから

そうでした。小出さんを文楽にお誘いしたのでした。
気に入ってもらえたようで、よかったです(笑)。

ん? えっ?!小出さんって、「仏教徒ですらない」の?! いやいや、少なくとも仏教徒ではあると思いますが……。でも、考えてみれば「仏教ファン」と「仏教徒」って違うのかもしれませんね。世の中には“クリスチャンだけど、仏教ファン”って人もいるでしょうから。ただ、小出さんの場合は「仏教ファンで、お寺ファン」というところが特徴的です(笑)。「仏教は好きだけど、お寺に興味ない」とか、「仏教ファンだけど、お坊さんは嫌い」なんて人もいますよ。「お寺ファン」というだけで、十分にこの「テラ未来予想図」を語る資格があると思います。

さて、お寺は一ヶ寺一ヶ寺、ずいぶん事情が異なります。同じ宗派であっても、かなり違うところがありまして。だから、ひと口に「寺院運営」と言っても、どのお寺にもあてはまるモデルというのはありません。また、事情の相違の主要因は、宗派や教義よりも、地域社会の様態の方が大きかったりします。そんなわけで、「寺院運営」への取り組みって、個別性が強く、超宗派的性格をもっています。寺院運営という視点が展開されるにつれて、“各僧侶の個人的活動”や“超宗派的活動”の傾向が強くなっていくんですね。

 

■教団宗教者のジレンマ

日本仏教は、良い意味でも、悪い意味でも、強いセクト性をもっています。いわゆる「宗派仏教」というやつです。そこが大きな特性です。しかし、転換期を迎えた現在のお寺では、各宗派の特性が薄められていく方向へと傾斜しているようです。

また、かつてのお寺は宗派色が濃い地域コミュニティのメンバーが中心となって運営されていました。でも、その地盤は小さくなる一方です。そこでお寺を旧メンバー以外にも開くことになります。どう開くのか。どうやって人々に来てもらうのか。そのための工夫や取り組みが必要になってきています。

そもそも、宗派仏教としての日本のお寺は、浄土真宗のお寺は浄土真宗のみ法を伝えるために、日蓮宗のお寺は日蓮宗の教えを伝えるために存在するわけです。しかし、かつてのように強い宗派色を打ち出すとお寺の敷居が高くなってしまう。このあたりのジレンマがあります。各宗派に所属する“教団宗教者”である僧侶が抱える独特の悩ましさですね。

 

■お寺は何のためにあるのか

前回、小出さんは「寺院関係者は、こういった質問を受けたとき、実際にはどのようにお答えになっていらっしゃるのでしょうか? また、その答えに対して、質問者はどの程度納得されているのでしょうか? とても興味があります」と書いてくれました。

学生の「なんのために寺院を存続させなきゃいけないの?」の声は、「お寺の存続自体が自目的化してしまっているのでは?」「そもそもお寺は何のためにあるのか」と問われているようにも感じますね。

そもそも何のためにお寺が存在するのか。み法(のり)を伝えるため、仏法を護持するため、み法と出遇うため、仏道を歩むため、修行するため、仏法を学ぶため、同じ道を歩む人々が集うためにあります。それが第一義です。

ですから、やはりお寺は、仏法の場として本気で向き合う態度が中軸になければなりません。ただ単にお寺に人が集まればよい、というわけにはいかないですよね。むしろ、たとえ現代人にまったくウケなくても、誰も来なくなっても、法を伝えようとする本義に立つ。そんな姿勢が重要なのかもしれません。

さて、私のゼミで件(くだん)の質問が出た時、寺院運営について発表した学生は虚をつかれたような感じでした。だから、うまく応えられなかったんですよ。そのため質問者は(その場では)納得できなかったと思います。

「お寺は何のためにあるの?」との問いにきちんと答えられなかったその寺院後継者を、「なんだ、ただお寺存続が自目的化しているだけで、問題意識が低いな」などと批判することも可能でしょう。でも私は、いくつもの先行き不安を抱えながら、それでもなんとかお寺を残そうとして苦闘している姿に胸をうたれます。寺院運営について懸命に考察する学生を見ていて、応援したくなります。それは単に“そのお寺に生まれたから”というだけではないものがあります。だって、お寺を出ちゃう方がずっと楽な場合もあるんですから。また、その学生が真剣に地域社会について考えていることも確かなのです。地方行政マンというわけでもないのに、20歳前後の若者が過疎地域について真面目に考えているって、なかなかないでしょう(笑)。

 

■ニーズマターとミッションマターと

「お寺のあるべき姿」と「お寺の存続」という課題、いろいろややこしいところがあります。そこで、お寺の取り組みを「ニーズマター」と「ミッションマター」の双方に取り組む、そんなふうに考えるのはどうでしょう。現代人の求めにきちんと向き合う、あの手この手で関心を集める、そちらは「ニーズマター」です。

しかし、現代人のニーズに合わせて本来の姿を見失ったり、伝統を手放したりすると、シンクレティズム化していきます。ですから、ニーズがあろうが、なかろうが、果たすべき役目に関しては「ミッションマター」と呼んで、ここを手放さないよう常に自問していくのです。

「ニーズマター」と「ミッションマター」の両輪を回していく場って、すごく魅力的じゃありませんか?

小出さんも書いてくれていますが(参照:そんな日々を送っていたあるとき、私は、とある観光寺院を訪れました。……でも確実にクロスしていくのが感じられました)、宗教の場というのは、時にこのように(その場に関わる)人間の思惑を超えて機能することがあります。そこに宗教の場の本領があるようにも思えます。お寺も、ただ愚直に懸命に存続しているうちに、その場が練れてきて、高い宗教性を発揮したりしますからね。住職や僧侶の理念も及ばない、場のもつ宗教性そのもの、これがあなどれません。この往復書簡では、そういった“機能をもった場、以前の場”みたいなメタ場所論にも言及してみたいです。

とまあ、私の文章も行ったり来たりしているわけでして……。この問題にいくつかのジレンマが内包されているため、こうなっちゃうんですね(笑)。