常陸國總社宮禰宜
石崎貴比古
増田さんから御下命を受けたためアウェイ感満載ながら拙稿をしたためました。
僧侶の先生方とお付き合いする中で強く思うのは、われわれ神職は圧倒的に「トークする力」が、欠けているということです。
最近でこそ「社頭講話」の名の下に氏子崇敬者に神道のなにがしかを伝えること、の大切さが認識されつつありますが、年配の宮司さんにはそういった意識が少ない方が非常に多いように感じます。
神道はよく「教典」「経典」がない宗教だと言われます。これに準ずるものとして『古事記』や『日本書紀』が挙げられますが、象徴的な神話が多くそこから「現代社会に生きる上で役立つ何か」を見出すのはなかなか困難な作業です。
「カミ」という存在は理解しがたいスーパーパワー全般を指す言葉。
そんなカミサマとのお付き合いは日本列島に暮らす人々にとって当たり前だった時代が長く続きました。よく分からんけど大切にしよう、理解できないからこそリスペクトしよう、というマインドが歴史的に醸成されたわけです。
そのためどこか「わからなくてもいい」というような風潮があるのかもしれません。
そしてプロである我々自信も、勉強不足に甘んじてしまう悪循環が生じているように思います。
全てを頭デッカチに理解しようという現代において、「分からない」を大切にするのは神道のナイスな部分だと思います。しかし逆説的ではありますが、あまりに分からなすぎるのは、神主が「トーク」の努力を怠っているがゆえのように思うのです。
私が伝えたい神道は「トークする神道」です。
分からないカミサマのこと、難しい神道のことを相手に最も響く言葉をチョイスしてトークすること。それが私の努力していることです。
ところが、私などが頑張るまでもなく氏子さんたちはカミサマを感覚的、体感的に分かっておられるように感じます。
私がお仕えする常陸國總社宮の9月の例大祭は「関東三大祭」のキャッチフレーズの通り、なかなか盛大な祭りです。
祭り本番に近づくにつれ氏子さんたちとの酒席が多くなるのですが、
彼らと酒を酌み交わすたびに脳裏をよぎるのが、
「我々よりもよっぽど分かっているのじゃないか?」ということ。
氏子さんのカミサマや神社に対する思いを耳にするたびに、
目からウロコなことがよくあります。
でもこちらも一応プロなので、皆さんにお任せしきり、という訳にも参りません。
氏子さんとの会話で切磋琢磨して、僧侶の皆さんに負けないぶっちゃけトークを展開できるよう、これからも努力していきたいと思います。