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テンプルバトン

ーテンプルバトンーその12(東好章)

【テンプル・バトン】その12(浄土宗 東好章師)

「ご縁」をテーマに法話を繋ぐ「テンプルバトン」が回ってまいりました。

お題は「ご縁」です。「ご縁」を頂き私事ですがちょっとお話しさせて頂きます東 好章です、宜しくお願い申し上げます。ちょっと長いですがご了承下さい。

私は、栃木県佐野市堀米町にある浄土宗のお寺 一向寺の住職だった祖父の長男である父、織物屋の次女だった母の長男として織物屋に生まれました。そこで母方の祖母から育てられた為織物屋が大変好きでした。私が幼稚園に入園してから家族と一緒にお寺に入居しましたがお寺になかなか馴染めず、私はお寺が大嫌いでした。その後母と一緒にお寺を出て織物屋に戻りましたからお寺での生活は約3年位です。そして地元の高校を出て東京に移り住み大学を卒業した時、父と祖父から「とりあえず僧侶の資格だけは頼むから取ってくれ、その後は自由でいいから」と言われ渋々本山に修行に行きました。修行中もお寺が嫌で嫌で仕方がなくて指導員に反抗し罰を何度も受けましたし、脱走したこともありました。とは言え何とかギリギリの成績で修行を終えて僧侶としての必要最低限の資格を取得し本山を下りることができました。その後はバイトしてお金を貯めて一目散に日本を飛び出して約2~3年位海外へバックパッカーとして旅に出ました。何故かと言えば「先ずは嫌いなお寺から逃げる為」です。お寺に勤めるのも嫌ですから「逃げるが勝ち」です。

とはいえ何のゆかりもない見ず知らずの海外での旅暮らしでしたが不思議と何かしら「ご縁」はつながるものです。

インドで大変な病気になった時にお世話になったのはブッダガヤというお釈迦様が悟りを開いた町の日本寺でしたし、病が回復した後にはお釈迦様がご説法なされたラージギールという町の山の上にある日本山妙法寺にて管理人をしました。その時は本当に九死に一生を得た思いでご仏縁で得た命でした。寝ながら星を見て思い出すのは遠い空の下の故郷の事、父母祖父母家族のことです。

その後病が完治してから旅を再開し1年後にはドイツのベルリンでのんきに暮らしていました。予定ではそこからシベリア鉄道に乗って3か月位かけて中国北京に戻ろうかな‥と思い、安いチケットを買って次の電車を一週間位待っていたのです。そんな矢先ふと虫の知らせでしょうかね…何となく「何かあったような‥(?_?)」と頭をよぎり、思いつくままフランスのストラスブールまで行きました。そして日本の実家に国際電話すると、母が電話に出て「お爺ちゃんが亡くなったから急いで帰ってきて!」と涙声で訴えてくれました。

その時はふと心の中で何かの声がして、予感があったんです…。地球の裏側からその「ご縁」はつながっているんだということを痛いほど実感しました。

慌ててベルリンに戻ってシベリア鉄道のチケットをキャンセルしてソ連の航空会社アエロフロートで急いで日本に帰り着いて、一向寺住職であり祖父の本葬儀に参列し送ることができました。死に目には会うことができませんでしたが、きっと祖父が私を呼んで私の帰りを待っていたのです。その「ご縁」によって私は生かされていることを地球の裏側のベルリンで知ることができたんですね…。それから20年以上の歳月が流れて今不思議なご縁で私は一向寺の住職を勤めさせて頂いています。あんなに嫌いだったお寺を、今は頂いた有難いご縁に感謝しながらお勤めさせて頂いています。きっと祖父も不出来ながらも私が住職となりお寺が存続していることを喜んでくれているでしょう。因みに私は38代目住職でお寺の歴史は約750年位ですから鎌倉時代からです。「ご縁」ってつながっているんですね…。

「ご縁」とは私達の頭の中では計り知れないはるか想像を超えた巡り合わせ、つながりです。どうかその「ご縁」を皆様も合間に感じてみて下さい。そして大切になさり心豊かに生きて下さいね。この「ご縁」つながりを大切にして共に協力し合いながらみんなでコロナウイルス感染症を乗り越えていきましょうね。つたない私の話にお付き合い頂き有難うございました。また宜しければ一向寺にお参り下さいね、それとお坊さんが答える悩み相談サイト「hasunoha」もご覧下さい、そしてお気軽にご質問なさって下さいね。お悩みやお困りごとございましたら独りで抱えずにどうかご相談なさって下さいね。私達はみんなご縁でつながっていますからね。

https://hasunoha.jp/で皆様を心よりお待ちしています。

さて、このバトンは真言宗 増田俊康さんにお渡しします。
増田さん、宜しくお願いします。至心合掌 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ

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