松崎智海
(浄土真宗永明寺住職)
※メインで使用している画像は海外でデザインされ、実際に使用されてもいるクリスマス&仏教の画像を購入し、そこに永明寺さんの大賞を取った掲示板を合成しましたので、画像の責任は仏教井戸端トークにあります。
このたび、永明寺の掲示板が「輝け!お寺の掲示板大賞2019」の大賞をいただきました。注目を集め盛り上がっているこの企画で、私などが大賞をいただいてもよいものか大変恐縮しております。
さて、今年の7月に奇しくもお寺の掲示板大賞2019のキックオフイベントに招かれ、2018年の受賞を踏まえての掲示伝道に対する思いを語る機会をいただきました。大役のプレッシャーに圧し潰されそうでしたが、何とか来場の方に20分ほどのプレゼンを行うことができました。
他人に伝えるということは自分自身の考えを整理整頓するということでもあります。このプレゼンをまとめながら私の中で漠然としていたものが明確になりました。それは、私は「お寺の掲示板に大きな期待をしていない」ということです。日々掲示板で発信している者の発言としては少し誤解を与えるような表現ではありますが、もう少し丁寧な言い方をすると「この小さな紙で仏の教えを伝えられると自分自身の力を信じていない」ということです。そして「掲示板の向こう側」、その領域に思いが向いているということです。
掲示板には物理的な制約があります。私どものお寺の掲示板でいうと用紙サイズとしてはA1程度でしょうか。その枠の中で表現するわけです。通りすがりの方々にも気づいてもらうため、できるだけ大きな字で短いフレーズにまとめる必要があります。主題に注力し表現のぜい肉を削り落としていきます。その作業の過程で、必要なものを削りすぎたり、また余計な言葉が残っていたり、行間から予期せぬ誤解が生まれたりもします。それが数週間にわたりお寺の掲示板に居座り続けるわけですから、多くの方々の目に触れていくメリットもありますが、大きな誤解を生むもとにもなります。人の目を引く刺激的な言葉と教義に即した静かな言葉の間を探りながら適切な言葉を探す作業はかなり気を使うものです。
そんな作業を行いながら、さらに仏教のみ教えを伝えなければならない。私にはとてもそんな高度な学識も徳も持ち合わせていません。ですから、私が掲示板に込める思いはとにかく「耳目を集めること」です。世間の持つお寺のイメージとのギャップを利用し、批判や誤解を覚悟のうえでSNSに投稿します。「注目されれば何でもいいと思うな」とお叱りを受けることも踏まえてわずかながらの勇気を振り絞ります。いつもヘラヘラしていますが私だって怒られるのは嫌ですから。
だったらやらなければいいではないか。確かにそう思います。しかし、私がこんな常識外れなことができるのは、ひとえに私が信じる仏様が偉大だからです。私ごときが多少羽目を外そうが僅かも霞むことのないこの素晴らしい仏様に触れて欲しい。こんな愚か者でも救うと誓われた仏様を一度でいいから見て欲しい。ほんの少しでいいから聴いて欲しい。そして一度でもご縁をいただくならば必ずその力に気づいてもらえるはずです。私が指をさされて笑われているその先にある素晴らしいものに気付いて欲しい。そしてそれは全国に7万か所以上あり、とても身近なものであることをわかって欲しい。それを知ってもらえるならば多少の批判は甘んじて受けます。(多少じゃない批判は嫌ですが…)
永明寺の掲示板やSNSの投稿をきっかけにお寺を訪れてくださる方が増えてきました。この方々は掲示板やSNSの先にあるものを見つけてくださった方々です。私にとって掲示板はただの入り口。そこから先につながるものが私にとって重要です。今、多くのメディアにお寺の掲示板が注目されています。入り口の先に無限に広がる世界をどう伝えていくのか。注目されている今だからこそ真価が問われていると思います。制限のないその領域こそ私たちが見るべきものではないでしょうか。たけまるぅ。