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井戸端コラム

ご近所(阿純章)

圓融寺住職
阿 純章(おか・じゅんしょう)

「ご近所」がテーマらしい。
それを知らずにコラムの執筆を受けてしまったが、私はご近所というものにとにかく疎い。いや、疎いというより、苦手だ。
ご近所の噂話などには興味がないし、作りすぎた肉ジャガをおすそ分けもしない。もしもお醤油がなくなったら、お隣の玄関を叩くより、ちょっと遠くてもコンビニに買いに行くだろう。
道端で知っている人とすれ違えばニッコリ挨拶はするものの、それ以上の気の利いた言葉が出てこないから、なにげない世間話に広がることはない。テレビもあまり見ないので人気ドラマのこともプロ野球の結果も分からない。そんな私と会話をしても相手は退屈極まりないはずだ。

思えば子どもの頃からひとりでいるのが好きだった。教室の片隅や校庭の大きな木の下で空想にふけっていた。ありきたりの日常の生活から飛び出して、はるか遠い未知の世界を冒険し、いつかこの宇宙に隠された真実を見つけ出したいと思っていた。クラスでも浮いた存在だったようで、担任の先生からも宇宙人というあだ名で呼ばれていた。
大人になるにつれ、だいぶ地球人っぽくなってきたと思うが、妻に言わせると、まだ銀河系の圏内にも入っていないらしい・・・。確かに今もなお心のどこかに子どもだった頃の自分がいてひょっこり顔を出すと、ひとりになってぼんやり空想にひたりたくなる。

こんな性分の私がよく寺の住職をつとめているなと自分でも不思議でならないが、ご近所の人たちは私以上にもっと不安かもしれない。なにせ寺というのは地域の中心的な存在であり、何かと人づきあいが多い。人間関係がすべてだ。その寺の住職たるもの、ご近所のことは何でも熟知しており、いざという時に頼りになるべき地域の顔役的な人物であってもらいたいという暗黙の期待がある。

でも、ちょっと待ってもらいたい。もともと仏教とは世間の人間関係のためというよりも、世間のしがらみから離れる教えだったではないか。自分をとりまくあらゆる束縛を断ち切り、最終的には自我からも解放されて、この宇宙の真実に目覚める。そうしてこそ一切の苦悩が消えるのだ。
この世界で生きる誰もが何かに縛られている。特に現代社会は締め付けが厳しい悩み多き時代だ。せっせとご近所づきあいをしてよりよい人間関係を築くのもいいが、ちょっとひとりになって自分本来の姿をあらためて見つめることも必要だ。そうすることで、かえってご近所の景色が今までとは違ってくることもあるだろう。
そう考えれば、寺は世間からちょっと浮いたポジションにあるのが丁度良いではないか、といえば言い訳に聞こえるかもしれない。もちろん寺は多くの人々が集う交流の場でもあるべきだが、その一方で社会の価値観や常識とは異なる次元で宇宙の真理を探究する空間であることも忘れないでほしいのだ。そして今の時代、そういう「浮いた存在」が求められているようにも思う。

さて、その宇宙の真理であるが、子どもの頃ははるか遠い彼方にあると思っていたけれども、案外すぐ目の前のご近所にあったりするのかもしれない。
「衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ」(※)と、白隠禅師も言っているではないか。
そういう意味でのご近所づきあいであれば、歓迎だ。

※白隠禅師坐禅和讃より

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