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井戸端コラム

ご近所(青江覚峰)

緑泉寺住職
青江覚峰

小さい頃、お寺の近所には大勢の友だちがいました。同世代の友だち、その兄弟姉妹、友だちの友だち。その関係は、自分が大きくなるにつれて少しずつ変化していきました。

はじめは本当にごく近所の幼馴染。少し大きくなると、一人で出かける範囲が広がり、そこでも友だちができます。友だちではないけれど、お店屋さんで働く人など、世代の違う顔見知りも増えます。
「近所」という言葉の表す範囲が広がってくるのです。 やがて就職や進学で、自分の活動の場がご近所から遠く離れるようになります。その頃には、昔よく遊んでいた友だちも、なかなか顔を合わせません。かわいがってくれた近所のおばさんはお婆さんになり、会っても軽く会釈する程度のおつきあいに。
ところが結婚して子供が生まれると、今度は子どもを通してママ友、パパ友として近所づきあいが復活します。幼馴染と子どもの幼稚園で再会した、なんていう話もよく聞かれます。 自分もご近所さんも、時間の経過とともにどんどん変化していきます。

けれど、それは自分の目線で見た場合に限ってのことです。 自分にとって関わりの深いものや興味の対象が変わることで、ご近所とのおつきあいが変わったとしても、それは自分の見方が変わったにすぎません。もちろん、ご近所さんも引っ越すなどして人やお店がまるごと変わってしまうこともあります。それでも、そこへ新しく来た人だって、同じご近所さんです。自分がどこでどんな暮らしをしようとも、砂漠のど真ん中でもない限り、常にご近所さんはいるのです。ところが、自分の目線で見ているから、ご近所さんとの距離は伸びたり縮まったりして一定しないのです。

一方、自分を見てくれている目線はどうでしょうか。 親や兄弟のように、常に自分を気にかけ、大事に思ってくれる人は、自分がどこで何をしていようと、どんなことに興味を持っていようとも、変わることなく見守り続けてくれます。住んでいる場所という現実の距離に左右されることはありません。

仏さまも同じです。いつもそこにいて、自分がどちらを向いていても、たとえ仏さまのほうを向いていなくても、変わらず見守っていてくれます。
移り変わりの早いこの世の中、そのような存在を感じられることは、本当に幸せなことです。

*青江師は当仏教井戸端トークではさんぽで仏教プラクティスでの声明指導と、お題法話仏教用語禁止編にご登壇頂きました。仏教用語禁止シリーズは2018年も開催予定です。