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テラ未来予想図

[第六回] 小出→釈先生 「なにをするのか」ということよりも、「誰がその場を作っているのか」

小出遥子(こいではるこ)

釈先生、こんにちは。先日、インドの砂漠を旅してきまして、そこで受けたショックが(ありとあらゆる意味で)あまりにも大きすぎて(笑)、いまだに意識が日本に戻りきっていないような状況です……。このような中で、「日本」のお寺の未来について考えることができるのか、甚だ疑問でものすごく不安なのですが、そうは言っても締切は待ってくれない!(笑) できるだけやってみたいと思います。

インドでは多種多様な「生きた信仰」を目の当たりにしました。とくに、今回の旅では、どういうわけか、インドでも比較的珍しい(?)スーフィー(イスラム神秘主義)の一族とご縁がありまして、多くの時間を彼らとともに過ごさせていただくことができました。いろいろ感じるところはあったのですが、これがことばとなって意識上に明確に現れてくるまでには、もうしばらく時間がかかりそうです。

しかし、あの時間は、私の中の「なにか」を確実に変化させてしまいました。それは事実です。「宗教」や「信仰」というものの力をまざまざと見せつけられた数日間でした。この経験が、この連載や、私がこれから表現していくものに、いったいどのような影響を与えていくのか、それともまったく与えていかないのか(笑)。私自身、ワクワクしながら成り行きを見守っていきたいと思っています。

◆「統合」「統一」を目指すよりも……

さて、インドの話はこのぐらいにして(笑)本題に移りたいと思います。第4回目で、私は、以下のような持論を展開しました。

>「大元」にあるものを伝えるために、それぞれの宗派の教えがあるわけですよね? 教えは、その「大元」にあるなにかへの「はしご」と言いますか、そこへの気づきの「ヒント」のようなものなのではないでしょうか?
>とすると、お寺という場所の「第一義」は、「それぞれの宗派の教えを伝えること」というよりは、「仏教の大元にあるものに触れてもらうこと」になるのではないでしょうか?

これに対して、前回、釈先生は、このようにお返事をくださいました。

>私は「つきつめれば、みんな同じ大元へと至るためのもの」という考え方には警戒心をもっています。ずいぶん包括主義(inclusivism)や多元主義(pluralism)の具合悪さを見てきたからでして。小出さんが言うように、どうしても教え(教義・ロゴス)の部分に焦点を当てた立場になるからです。まさに、「いろいろシンプルになる」ことに懐疑的なんです(これは「宗教って何?」といった問いでも同様の事態となります)。>お寺は、教えやロゴスだけじゃなくて、コミュニティやエトスやパトスなどによって編み上げられてきた場です。シンプルにしちゃうと、私自身の関心対象である「様式」「文化」「伝承」「言語」などが、つい捨象されてしまいます。だから、むしろ個別の在り様(particularism)を見ていく方が大切だと思います。

釈先生のお返事を拝読して、私、あまりにことば足らずだったかな……と反省する部分がありましたので、ここで少し……というより、かなり大幅に(笑)補足させていただきます。
私は、日本の宗派仏教、ひいてはそのほかのさまざまな宗教に関して、「つきつめれば、みんな同じ大元へと至るためのもの」というふうに考えているわけではないのです。

さまざまな活動をしていく中で、どういうわけか、「小出さんは、宗教、宗派の統合や統一を目指していらっしゃるのですよね?」と断定口調で問いかけられることも多いのですが(笑)、そのたびに、そういったものは、むしろ、私自身の思いとは真逆に位置する考えであると説明しています。

私は、決して「一元(ワンネス)主義者」というわけではないのです。(そもそも「主義」ということばに馴染めない自分がいます。)ばらばらのものをひとつにまとめる必要はない。むしろ、「違い」を「違い」のままに大切に受け取るための知恵(智慧)を探ることが、これからの人類にとって必要なのではないかな、と思っています。(かと言って「多元主義」を標榜しているというわけでもないのです。「違い」をそのまま、ありのままに受け取る仕事は、人ではなく仏の領域のもの、という感覚があるのです。うーん、説明が難しいですね……。)

とにかく、釈先生のおっしゃる「個別の在り様」こそに、それぞれの教えの重要なエッセンスが詰まっていることは、私自身、深く実感していますし、それらを薄めたり、「ひとつ」にまとめたり、ましてなくしたりしていいものだとは決して思っていません。それらはなにをおいても大切に守らなくてはならないものだと感じています。それがどんなに、仏教に親しんでいない人たちに「怖い!」「キモい!」と思われるようなものであったとしても。

……あれ? 第4回で書いたことと矛盾してきますか? いやいや、私の中では、この話はばっちりつながっているのです。理由はこれから書いていきます。いましばらくお付き合いください。

◆仏教=本来的ないのちのあり方を指し示す智慧の総体

私が「仏教の大元にあるもの」ということばの先に想定していたのは、「本来的ないのちのあり方を指し示す智慧」とも呼ぶべきものでした。仏教は、お釈迦さまの「苦」からスタートしています。そして、その「苦」は、「いのち」のあり方に関する勘違い、つまりは「無明」から生じている。仏教は、その無明を破るための智慧、つまり、本来的ないのちのあり方を指し示す智慧の総体であると、私は受け取っています。

どんなに「様式」や「文化」や「伝承」や「言葉」が違っていても、それが仏教である限り、いのちを大元においているという事実は変わらないと思うのです。そして、人間である限り、いのちを生きていない人はいない。つまり、仏教というのは、本来、誰にとっても「自分ごと」であるはずなんです。

しかし、このあたりの説明を抜きにして、頭ごなしに「お念仏しましょう」とか「お題目をとなえましょう」とか言われたって(もちろん、これは単なる例です! 浄土真宗や日蓮宗を批判するものではありません!)「キモい!」「怖い!」と思われてしまうのがオチなのでは……と、私自身の体験からそう感じたので、第4回ではそのように率直に書かせていただきました。

逆に言えば、そのあたりから順を追って説明していくことができれば、つまり、お念仏やお題目などの行は、すべて、本来的ないのちのあり方(それはもちろん「ひとつ」とは限りません)に気づいていくための道筋なのだと示すことができれば、いまだ日本人の間に根深く存在する「宗教アレルギー」「宗派アレルギー」を払拭することができるのではないでしょうか。また、すでに仏教に馴染んでいる方々にとっても、自分の属する宗派の教えに妙に固執することなく、他の宗派の教えにも、自然に敬意を払うような姿勢が浸透していくのではないでしょうか。

というわけで、前回、釈先生がお書きになられていた「キモいや怖いがないような宗教はアカン」という、一見「激しい!」おことばには、実は、私個人としては、心の底から大賛成なのです! ただ、やはり、いきなり「怖くてキモい」宗教に飛び込む勇気がない方が大半だと思いますので(もちろん、私もそうでした)、最初は「どうかお手柔らかに……」とお願いしたい気持ちもあって……。

とは言え、そもそも仏教の大元にあるいのち自体が、通常の論理では解決できないものを孕んでいるので、「筋の通った、矛盾のない話」に限界があることは百も承知です。だからこその「ジレンマ」なんですよね……。

あるお坊さんが「宗教者(僧侶)は非常識なことを説かなくてはならない」とおっしゃっていたことも思い出しました。「常識を超えた物語を届けることこそが、宗教の役割なのだから」と。頷けるお話です。

ところで、この「常識を超えた物語」を届ける方法として、私は、「あたまではなく、からだに訴える」ことを重要視しています。これに関しては、また今度、じっくり語らせていただきますね! もしかしたら、釈先生が注目されている、アートや音楽や芸能という方法(と言ったら誤解があるかもしれませんが……)も、このあたりお話と関連してくるのかもしれないな、と、今後の展開に(ごくごく勝手に)期待を寄せています。

◆「なにをするのか」より「誰がしているか」が大事

さて、どうも話が「未来予想図」から脱線しがちな私ですが(ごめんなさい〜!)、さすが釈先生、きちんと本筋に戻してくださいます(笑)。前回の「専従型寺院と兼業型寺院」のお話、とても簡潔でわかりやすく、「なるほど」と頷きながら拝読しました。また、なんとなく耳にしていた「寺業」ということばの意味についても「お寺ならではの宗教性と公共性を兼ね備えた事業」というふうに明確に説明してくださり、ありがたかったです。

私も、これまで、いろいろなお寺主体の取り組みに参加してきました。私自身、「Temple」というお寺を舞台とした対話の集いを4年間主催してきました。(Templeについては、今後、この連載でも詳しく語ることがあると思います。)

そこで感じたのは、それがどんなものであれ、ご住職や、そのお寺に関わっている方々が、仏の教えをどのように受け取っているのかが「にじむ」ものなのだなあ、ということ。極端なことを言えば、「なにをするのか」ということよりも、「誰がその場を作っているのか」「その人のベースにどんな教えが流れているのか」ということの方が、ここにおいては非常に大事なんだなあ……と強く感じています。

その点で言えば、ご自身は「すべて中途半端」とご謙遜されますが、如来寺も、練心庵も、むつみ庵も、釈先生が中心となって運営されているという時点で、すべて、完全に「お寺」という場の本来的な意義を果たしていると感じるのですが……。先生のおっしゃる「中途半端キャンペーン」(この語感、なんだかやけに気に入ってしまいました!笑)の中身を、次回、詳しくお聞きしたいです。